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152 未来予測の方法を知ろう 60スター西洋占星術シーズン6の9 ロシア・東欧編  L.Ⅰ.ブレジネフ

60stars astrology By Tokyo-Tanuki 60スター西洋占星術 シーズン6 日本語版 152 未来予測の方法を知ろう  60スター西洋占星術シーズン6の9  ロシア・東欧編 L.ブレジネフ 1.  さて、このシーズン6の最後、ロシア・東欧編ですよ! ロシアは、人口があまり多くないのに、イギリスと同様、大物が現れやすい土地です。 まず、第一回目は、 L.I.ブレジネフさん を紹介します。 ブレジネフさんは、フルシチョフさんの後、ゴルバチョフさんよりもちょっと前のソビエト連邦のトップです。 たぬちゃんが小さいころは、現役でした。 立派な眉毛の人ですよ! V=3.33 です。 2.  ブレジネフさんは1906年12月19日生まれです。 太陽はいて座♐26度にありますが、60スター西洋占星術ではしし座♌になります。 月はみずがめ座♒16度ですが60スター西洋占星術ではおひつじ座♈です。 アセンダントもおひつじ座なので、この方は、 炎の性格、正確は剛毅、名 誉を愛し、職人かつ軍人タイプの方だと思います。 (図1) 3.  そして、そのとおり、ブレジネフは1923年にコムソムールに入って冶金を学び( バルカンの吉角 、太陽の60度)、その後、共産党に入ったあとはフルシチョフの知遇を得て、1935年には冶金技術学校で再度冶金を学び、鉄鋼産業の技術者になります。 1941年に独ソ戦が始まるや直ちに徴兵され、鉄鋼などの産業の避難を行い、1943年4月には第18軍の政治部長に就任します。 この時、ブレジネフの太陽は、 36.3×3.33+♐26°=146.8°で、おひつじ座の27度付近になります。 太陽のトライン、アルクトゥルスのオッポジションです。 1943年の後半に入ると、ブレジネフの軍(ウクライナ戦線)は、戦場の主導権を握ります。 (図2) 4.  戦後、プログレッションの太陽がおうし座を通過している間、ブレジネフは主にウクライナ復興の仕事をしています。 しかし、仕事ぶりが評価され、 大王スターリン と会談して政治局員候補に昇進します(1952年) このとき(45歳)のブレジネフの太陽は、 45×3.33+♐26°=179°で、おうし座の29°です。しかし、翌年3月にスターリンは急死します。ブレジネフの太陽は双子座に入ります。 (図3) 5.  そして、...

151 60スター西洋占星術 シーズン6の付録6  Ptについての説明② 毛沢東と鄧小平を具体例にして

60stars astrology By Tokyo-Tanuki 60スター西洋占星術 シーズン6 日本語版 151 60スター西洋占星術 シーズン6の付録6   Ptについての説明②  毛沢東と鄧小平を具体例にして 1.  さて、Ptが拮抗する場合どうなるか、を中国の二人の権力者を例にとってみましょう。 鄧小平大王は V=2.5 ですが、毛沢東さんも、まあ、王と言ってよい数字です( V=3.0 ) そこで、両者の年齢差とPTの関係を見て行きます。 2.  毛沢東さんは1893年生まれ、鄧小平さんは1904年生まれで、年齢が11歳くらい違います。 鄧小平大王が中央の総書記に就任した時、つまり、 劉少奇-鄧小平体制 になった時をみると 1956年の年末時点では、 毛沢東さんは63歳なので Pt=63/120くらいですから、だいたい0.525ですね。 鄧小平大王は、52.4歳くらいなので、 Pt=52.4/104.8=0.499です。 この時点では、両者ともに0.7の二乗(0.49)を超えていますが、 やや(0.0251)毛沢東さんが上 ですね。 毛沢東>鄧小平 3.  それでは、文化大革命発動の時(1966年)を見てみましょう。 その年末時点では、 毛沢東さんは73歳なので Pt=73/120=0.608くらいです。 一方、鄧小平大王は、64.3歳くらいなので Pt=64.3/104.8=0.6135 で ほんのわずかに(0.0055)毛さんを上回っています。 鄧小平≧毛沢東 毛沢東さんは、たくさんの人、仲間を殺してきたので、仲間を信じられません。 1959年に引退状態に追い込まれた後、自分が殺されるという恐怖に追われていたのです。 そこで、実務派である反対派(劉少奇さん)ラインを失脚させるために仕掛けたのが文化大革命です。 しかし、毛さんは、鄧小平大王がめちゃくちゃ強いことを知っており、大王には、自分の方に参加するよう何度もこっそり呼び掛けています。 しかし、実務派の鄧小平大王は悩みます。 4.  もし、鄧小平大王が毛沢東につき、劉少奇さんのみを失脚させれば、こんな大混乱にならなかった可能性があります。 しかし、鄧小平大王は毛沢東にはつかなかった。 毛沢東には正義がないとみたのです。 そこで、重量級の争いとなり、国家が荒れたのです (文化大革命)。 また、...